女優として活躍している吉永小百合さんですが、両親との関係性や生い立ちが気になりますよね。
今回は、吉永小百合さんの両親との関係性や生い立ちを調査しました。
吉永小百合に子供はいないについてはこちらの記事をご覧ください。
投稿が見つかりません。吉永小百合の両親
吉永小百合の父
吉永小百合さんの父親は芳之さんと言います。
九州出身で、東京大学法学部法律学科を卒業しています。
大学卒業後は、九州耐火煉瓦株式会社へ就職、続いて外務省嘱託という経歴がありました。
「シネ・ロマンス社」という出版社を経営し、映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行しましたが、残念ながら事業は軌道に乗らず失敗に終わってしまいました。
この事業失敗により、毎日のように借金の取り立てが来るようになり、生活は困窮、米びつに米が1粒もない日が続いたそうです。
のちに、吉永小百合さんのマネージャーとなります。
吉永小百合の母
吉永小百合さんの母親は和枝さんです。
大阪出身で、歌人・ピアノ講師をしていました。
和枝さんは、7人兄弟で上から2番目の長女でしたが、3歳の時に祖父母が住む山寺へたっと一人で預けられることになります。
祖父は僧侶で、夜は御膳で食事をする傍ら晩酌に明け暮れていました。
当時、男尊女卑が当たり前だった時代ですので、祖母は1段下がった板の間に座布団も敷かないまま密かに質素な食事を済ませ、ひたすら祖父に給仕してたそうです。
そのような中で、祖母は、
と言われながら育てられたそうです。
のちに出版した著書『母だから 女だから』では
一人をつつしむということを教えられて育った
と当時を語っています。
和絵さんは祖父母に育てられた一方で、妹は父親とともに東京に移り住みます。
和枝さんの父親は東京に移り住むと事業が成功し、女中や書生、運転手など、家族の他にも20人以上が暮らすほどでした。
和枝さんの父親は、
ケトウ(外国人)には負けずに、たくさん食べて大きくなれ
ピアノ、スキーを習え
という洋風の子育てだったため、和枝さんが育った純日本風な子育てとは真逆のものでした。
和枝さんが6歳の頃に東京へ呼び戻されますが、当然和枝さんは馴染めずにいました。
兄弟は不仲
6歳から再び実親や兄弟と生活することになります。
しかし、畳に唾を吐き「お前は女だからこれを拭け」という男尊女卑を露呈する兄や、洋風な教育で育ち作法や所作が身についていない妹には嫌悪感を抱くばかりでした。
自身の置かれた環境を嘆くしか他なかったようです。
のちに絶縁状態となりました。
吉永小百合の生い立ち
吉永小百合さんの生い立ちを見てみましょう。
吉永小百合さんは、1945年3月13日に3人姉妹の次女として誕生します。
すでに目鼻立ちがはっきりしていて、かわいらしいですね。
誕生日から小学生までは、比較的裕福な家庭で育ったようですが、父親の事業が失敗した後は借金取りが来たり、日々食べることにも困っていました。
当時小学生の吉永小百合さんは、家計を助けるために新聞配達をすると言いますが、両親に反対されてしまいます。
そんな中、1957年、小学校在学中にオーディションに合格し、ラジオ番組『赤胴鈴之助』(ラジオ東京)で芸能界にデビューしました。
女優はアルバイト感覚だった
吉永小百合さんは、芸能界デビューしたものの、
「よく分からないんですけどね。小学校の時に学芸会で、一応主役をやったんです。5年生の時にね。私はうさぎのお母さんの役で」
と当時を語っていました。
医療少年院で劇を披露した際には、
「その子たちが泣いてくれたんですね。それでなんか自分もハーッと思って。お芝居って素敵だなと思ったんですけど」
と芝居は感動を与えることを身をもって感じたそうです。
これらの経験を踏まえ、小学校を卒業する際には
私は大きくなったら映画女優になりたい”
と、女優が目標となっていました。
知り合いのツテもあり、中学卒業と同時に日活の撮影所に入ります。
両親の洗脳・依存・束縛
吉永小百合さんの母親は、元祖ステージママでした。
吉永小百合さんがデビューを果たし、女優としての階段を登り始めてからは、二人三脚で仕事をこなしてきましたが、一家の大黒柱となった吉永小百合さんを待ち受けていたのは、両親の依存でした。
母親は、「人間である前に女優であれ」という言葉を繰り返し、半ば洗脳のようにこの言葉が小百合さんに降りかかります。
1967年に「吉永事務所」を設立すると、父親である芳之さんがマネージャーを務めることになります。
両親からの束縛や依存はますます強くなりますが、関係性を壊したくないという思いから、半ば言いなりとなり、プライベートも吉永小百合として生活をしていたそうです。
また、金銭的な搾取もあったため、次第に両親に不信感を抱くようになります。
失語症に陥った過去
吉永小百合さんは20代の頃、渡哲也さんと大恋愛をし、結婚間近でした。
しかし、
両親はモテる男と結婚すると苦労する
女優業に差し支える
という理由で大反対されます。
交際は2年ほど続きますが、吉永小百合さんは両親を説得することができずに「あなたとは結婚できません」と涙ながらに別れを告げます。
その後、渡哲也さんが他の女性と結婚したことを知り、失恋のショックと仕事の多忙さもあり、ストレスから声が出なくなってしまいました。
両親からの自立
ストレスにより声が出せなくなってしまった吉永小百合さんを支えたのが、のちの夫になる岡田太郎さんでした。
岡田太郎さんが献身的に寄り添ってくれたことや、両親に対する不信感もあり、心の底から愛する存在となりました。
岡田太郎さんは、吉永小百合さんよりも15歳上でバツイチだったこともあり、両親は反対します。
当の岡田太郎さんも、「結婚は大変だよ」と「女優は独身の方が有利だから、このままでいい」と言っていたそうですが、吉永小百合さんは結婚を強く望みました。
吉永小百合さんは、そんな両親と離れがたい思いもありながらも、
名前を変えることで1回、背負ってきたものを捨ててしまわないと、『私はこのままダメになる』
と、恋の逃避行を決めたそうです。
両親の反対を押し切って1973年に結婚しました。
両親の最期
父・芳之死去
父親の芳之さんは、1989年、90歳で死去しました。
レストランで食事中にステーキをのどに詰まらせて脳死状態になり、そのまま帰らぬ人となったといいます。
吉永小百合さんと姉妹は、気管切開をしての延命は可哀想と思いましたが、母の「少しでも一緒にいたい」という思いから、延命治療を選択することになりました。
そして、3カ月後に息を引き取ったそうです。
吉永小百合さんにとって父親は「優しい、優しい人」と話しており、過去のような関係性ではなかったようです。
母・和枝死去
母親の和枝さんは、86歳でがんが見つかりましたが、家族の必死の説得にも手術を拒否し続けたそうです。
『絶対に治療したくない』
『手術して自分の友人がうまくいなかったし、このままいたい』
という思いが強く、本人の意思を尊重し、吉永小百合さんは慣れない介護を続けました。
最後は「『病院に入るわ』って言ってくれて、それから2週間くらいで『お父さまが待ってるから』と言って2005年に90歳で死去しました。
「私のことがすごく心配だったみたいで、私の仕事をサポートしている女性に『頼むわね』って。
何度も『小百合のこと、頼むわね』って言ってましたね」
母親は最後まで吉永小百合さんのことを心配していたとのエピソードを話していました。
まとめ
今回は、吉永小百合さんの両親との関係性や生い立ちを調査しました。
大女優として活躍されている過去には想像を超えるものばかりでしたね。
今後の活躍も期待です。